江戸時代には、毎年冬になると必ずといってよいほど、天然痘の流行があり、ときどき大流行を起こした。当時の日本では、シメ縄を張り、紅白の護符や「清正」と書いた紙片を戸口に貼って、天然痘が来ないように祈るだけであった。
大村藩では、天然痘の患者が出ると「山揚げ」といって人里離れた小屋に隔離し、食糧を与えて養生をさせていた。
大村藩には、大村から5Km離れた「古田山」の他に2ヶ所人里離れたに痘瘡所があった。天然痘の治療は、父俊民以来、長与家の専門であったし、また俊達自身は天然痘に免疫があることから、自分から古田山に施設を建設して、天然痘を防ぐ「種痘」の研究をしていた。
施設の背後の山に病死した患者を埋葬した墓地があり、これは「痘瘡山(とうそうせん)」と呼ばれていた。
俊達が家督を継いだころは、ロシアに抑留中に「牛痘種痘法」を学んだ中川五郎治が活躍した北海道の松前藩を除いた日本では、まだ牛痘種痘法は行われていなかった。そのために18世紀末に福岡の秋月藩の緒方春朔が行った人痘種痘法しか、大流行して多くの死亡者を出す天然痘を防ぐ方法は無かった。
俊達は古田山にて人痘摂取法を研究する疱瘡所を創設し、当時大流行の天然痘に対処しようとした。当時の人痘摂取法は、天然痘患者の瘡痂皮を磨り潰して、鼻腔に吹き込む方法であった。
緒方春朔の本に、大村藩からも医師が来て「人痘摂取法」を研修した記述があり、俊達が秋月に来て学んだか否かは不明である。
文化時代末から文政初期(1810~1820)にかけて、俊達は毎年20例以上の種痘を経験していたといわれた。人痘種痘法では、当時10人に1人の割合で死亡すると言われ、天然痘に罹る死亡率は50%と言われていた時代であるから、人痘種痘によるリスクは、一般に容認されていたようである。
紙面の都合で2回に分ける。長与俊達の第1回は、俊達が自分で古田山で、天然痘の患者を看護し、種痘の研究をしているところまで述べた。第2回目は、天然痘治療と種痘の専門家として、大村藩を動かし、文政13年(1830)に藩によって古田山に治療と種痘の専門施設を作るところから述べる。
《参考文献》
1) 江口功一郎:長与俊達(創芸出版)
2) 深川晨堂:大村藩の医学(大村藩之医学出版会)
3) 中西 啓:ニッポン医家列伝(㈱ピー・アンド・シー)
4) 外山幹夫:医療福祉の祖・長与専斎(思文閣出版)
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