南冥は大坂から帰郷して、父と共に唐人町で開業し、宝暦12年(1762)には私塾を開いた。
彼の医学に対する態度は、古方医の傷寒論一辺倒でなく、その短を唐宋元明の後世派医学で補い、いわゆる「医は意なり、意は学より生ず、方に古今なく、要は治を期す」の方針であったという。
安永7年(1778)、黒田藩主・治之は南冥を士分に取り立て、儒医として採用し15人扶持を与えた。
天明元年(1781)8月に急死した藩主・治之の遺言により、天明4年(1784)に二つの学問所・朱子学派の修猷館と徂徠学派の甘棠館が設立された。そのとき、南冥は甘棠館の祭酒(学長)に任命された。
甘棠館が出来た年の天明4年(1784)2月23日、福岡の志賀島の畑の中から、百姓の甚兵衛により偶然に金印が発見された。
金印は博多の米屋・才蔵に託され、奉行の津田源次郎が亀井南冥に鑑定を依頼した。
南冥は中元2年(紀元57)に記された「後漢書」東夷伝に、光武帝が倭国(日本)から来た使者に、金印を授けたという記事を引用して、金印の由来を説明した。
それ以来、黒田藩が金印を保管することになった。(現在・福岡市百道の博物館の展示中)この発見に対して南冥は素早く、金印の由来を研究し、『金印弁』を著した、そして南冥は金印発見の報と印文並びに鑑定書を全国の学者と知人に送ったという。
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