1965年、東京オリンピックが終わり日本経済が成長の坂を駆け上っていた時代のことである。木村専太郎氏は、1本の映画に出会い、憧れた。
「ああいう医者になりたい」
木村氏は現在、福岡市でクリニックを開業しているが、ここにいたるまでの道程は波瀾に富んでいる。その道のスタート地点となったのが、黒澤明監督の『赤ひげ』だった。スクリーンに描かれていたのは、幕末の江戸、小石川養生所を舞台に貧しき市井の人々とともに生きる医師たちである。木村氏が憧れた赤ひげは、寡黙で無骨ながら確かな腕を持ち、熱い想いを胸に秘めた養生所長。そしてもうひとりの主役が、当初は赤ひげに反発し、やがて強く惹かれ感化されていく、長崎での蘭学修行帰りの青年医師だった。
当時の木村氏は年齢的にも立場的にも、三船敏郎が演じる赤ひげよりむしろ、加山雄三演じる青年医師のほうに近かったはずだ。ちょうど前年に、立川の米空軍病院でのインターンを終えたばかり。幕末期における西洋医学ほどのインパクトはなかったにせよ、やはりアメリカ式の教育や医療システムの違いには目を見張らされたに違いない。
卒業した九州大学の医局に戻っていた木村氏だが、「このまま大学にいては赤ひげ先生にはなれない」と、勇躍アメリカ留学に旅立つことになるのだから。
「あのころの大学医局員というのは、研究に縛られて、ほとんど無給で、卒後数年たっても手術もろくにさせてもらえなくて……、という具合に臨床からかけ離れていたんですね。赤ひげ、つまりいい臨床医になりたいと思っていた僕には、なんとももどかしい環境でした。米軍病院ではいろいろすばらしい経験をしたので、アメリカに行きさえすれば、いい臨床教育を受けられていい医者になれるはず、と思ってしまったんです(笑)」
英語は早くから勉強していた。
「父が時代の先を読める人でね。これからは英語の時代だからと言って、毎朝6時半に起こされてラジオの前に座らされたんです。終戦まもないころで、僕は小学校の4年生でした」
そのラジオの初級英語講座から始まり、飯塚の中学校、嘉穂高校と英語はいちばんの得意科目。大学入学後、読み書きはできてもまったく話せない自分に気づいてからは、英会話も熱心に学んだ。
「米軍病院でのインターンを志望したのも日常的に英語を話せる環境と給料が魅力的だったから。決して最初から留学なんてだいそれたことを考えていたわけじゃありません」
1年間の充実したインターン生活を終えるころには、英会話にも磨きがかかり、外国人医師がアメリカで臨床訓練を受けるためのいわば留学試験とも言えるECFMGの資格試験にも合格していた。それでもインターン修了後には九大第二外科に入局して、ごく普通のコースを辿るつもりでいたのである。そんな木村氏の心に火をつけたのが『赤ひげ』だった。
医員出張で出向いた山口県萩の病院で臨床に秀でた千葉大の中山恒明教授の弟子にあたる医師たちの実力を目の当たりにし、大学での研究室生活にはますます気が向かなくなっていった。そして、米軍立川病院でのインターン同期生18人のうち9人がアメリカ留学を決めた話を耳にする。現在とは比較にならないほどアメリカが遠い国だった40年前。留学という未知数に賭けるか大学医局という安定を選ぶか。考えるだけで答えの出る選択ではなかったが、最後は「やらずに後悔したくない」との思いに押されてアメリカ行きを決めたそうだ。
木村氏が嘉穂高校、九大時代を通して、語学や医学の勉強と同じくらい打ち込んだものに剣道がある。医学部の卒業試験中に県警の機動隊員と稽古をして五段の昇段試験に合格したほどの腕前。が、力や技以上に、この剣道を通して「なにくそ」精神を鍛えられたという。アメリカ行きは、木村氏のその内なるサムライ魂を揺さぶる武者修行でもあった。
(株)メディカル・プリンシプル社発行
(ドクターズマガジン2006年2月号 掲載)
取材:及川佐知枝/文:中村裕子/撮影:田口昭充
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