関寛斎(せきかんさい)の生誕地、千葉県東金(とうがね)市で、平成22年2月13日~3月4日にかけて彼の生誕180周年記念展示会が催された。私は平成22年2月12日と14日に東京で栄養学の勉強会に出席し、幸い2月13日土曜日の初日に行くことが出来た。東京駅から京葉線と外房線にのって、東金市に行った。
大変にタイムリーなことに東京への出張前に、私が医学史に興味を持っていることを知る千葉在住の高校同級生がPCのメールで、関寛斎生誕180周年記念展示会に関する新聞記事を送ってくれた。数年前に私が鳴門の大塚国際美術館に行ったとき、徳島藩の藩医であった関寛斎の足跡を訪ねたことがある。
寛斎は明治維新の戊辰(ぼしん)戦争で、官軍の奥羽出張病院長として、蘭方医学・外科学を駆使して、敵味方の差別なく治療に当った。維新後、彼は徳島の地で30年間以上に亘って、一町医者として庶民の診療に従事し、徳島の種痘普及に奉仕した。金持ちから診察料をとり、貧者には無償で医療を行った仁徳振りから、「関大明神」と慕われた。
明治35年、72歳のときに北海道に渡り、厳寒の地「陸別」に入り、子供とともに開墾を始めた。10年後の82歳のときに、波乱万丈の生涯を自ら絶った。何故72歳になって、北海道に行ったか、私には長い間の「謎」であった。次の第2回に私なりの答えを書いてみたい。生誕180年を記念して、今回は「硬骨の蘭方医」や、「最後の蘭方医」と呼ばれる「関寛斎」を、長崎留学までを書いてみることにした。
寛斎は、文政13年(1830)2月18日、上総(かずさ)国山辺郡中村(現・千葉県東金市東中)の農家・吉井佐兵衛・母幸子の長男として生まれ、幼名を豊太郎といった。母は非常に心の優しい人で、乞食の病者に食べ物を与えていたという。寛斎は愛情一杯に育てられてが、彼が3歳のときに母を亡くした。のちに寛斎は、生涯で3歳までの時間が一番幸福であったと述懐したという。母幸子の姉年子の嫁ぎ先は、儒家関俊輔(素寿)で、子供の居ない関夫婦に寛斎は預けられ、寛斎が13歳のとき養子になった。
養父は、「錦のような子供を育てよう」との理念のもとに私塾・製錦堂を開き、近所の子弟たちを教育していた。この塾の門弟の中に、後の佐倉順天堂第三代院長・佐藤尚中(舜海 1843-1911)が居て、のちに関俊輔の墓碑文を書いている。また佐藤尚中は、東京の順天堂医院の創設者でもある。
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