外科専門医試験のためにと滞在を延長したものの、結局72年に木村氏は帰国する。
「27歳のときに妻と2人で渡米したのですが、いつのまにか34歳。息子3人が加わって5人家族になっていました。家族も増えて、そろそろ日本に帰るころかなと」
いずれにしろ堂々たる武者修行である。その後、麻生飯塚病院外科医長を務めながら、九大で博士号を取得し、少しずつ日本の医療にも馴染んでいくが、心残りはアメリカの専門医試験だった。帰国後の翌年と3年目にハワイで筆記試験を受けるが、いずれも惜しいところで不合格。
「外科のボード筆記試験はレジデント修了後5年以内に3回まで受けられるんです。筆記に合格すればレジデント修了後10年以内に口述試験に合格すればいいというシステム。チャンスはあと2年のうちに1回だけとなって、再渡米を決心しました」
日本にいては英語を使う機会も少なく、忙しい勤務の合間を縫っての受験勉強では合格は難しい。せっかく高い目標をめざしてアメリカで7年もがんばったのだから、特にアイオワ大学では辛い悔しい思いにも耐えたのだから何がなんでも合格したい。アイオワ州の医師免許試験には合格していたので、今回は移民ビザ、グリーン・カードを持っての入国になった。レジデントとして4年をすごしたデ・モインのベテランズ病院にスタッフとして迎えられ、一般外科と耳鼻咽喉・頭頚外科を担当しながら受験勉強。2年目に筆記、口述の両方の試験に、今度は一発で合格する。
「長くお世話になったベテランズ病院外科チーフに『これでとうとう君のミッションは完了したね』と祝福され感無量でした」
合格後はアメリカでの開業も頭をよぎったが、日本から国立病院の外科部長にとの誘いがあったため帰国。ところが帰ってみると、当時九大第二外科の決まりでは講師経験がない者は国立病院の外科部長に推薦できないという。知識と技術、経験にふさわしいポストを与えてくれない国立別府亀川病院に失望した木村氏は、次こそは永住のつもりで三たび渡米した。
そして半年後デ・モインで念願の開業医となった。午前中は国立ベテランズ病院での勤務、午後は開業医として手術や回診、オフィスでの診察、夜はERでの勤務、週に2回はそのERでの当直。寝るまもないほどの忙しさだったがこの時期の厳しい経験はさらに木村氏を鍛えたのではないか。
「ERで働くときにはプライマリ・ケアの専門家として全科の患者さんを診ていました。開業医として、特に外国人が成功するためには、患者さんやその家族、また勤務先病院の看護師などスタッフたちとの誠心誠意のあるコミュニケーションを大切にしなければいけません。そういう大切なことを身をもって経験した3年間でした」
木村氏の知識や技術、経験、何よりも患者、家族、従業員への気配りある医療は、言葉や人種の壁を越えて、アメリカでまず正当に評価された。開業3年目には、アメリカ人医師の平均の3倍以上もの年収を得る、人気開業医となっていたのである。
(株)メディカル・プリンシプル社発行
(ドクターズマガジン2006年2月号 掲載)
取材:及川佐知枝/文:中村裕子/撮影:田口昭充
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